素描



僕はすべてを演じきった。いや、そうではない。何故なら、そこに存在した人生はすべて偽りのない本物だからだ。
舞台という額縁がその人の生涯、あるいはその一部を切り取ったパノラマを観客に見せる。
すると、そこに集まった人達は一様に何かを感じて感情や思考の源泉を刺激され、何らかのリアクションを起こし始める。

僕は彼らに影響を与える。同時に彼らは僕に作用する。入り組んでいる。力が互いを構成し、場に膠着させる。頭上から降り注ぐ光の粒子は可視化されてそこに在るもの達を際立たせる。
照射される熱は光であり、視線であり、僕自身の体温であり、芸術その物だ。
僕は、これまで何十回も死んで生きた命をそこに描写し、再現する。

「お疲れ様」
通りすがりにラウルが言った。
「千秋楽お疲れ様。ホテルで打ち上げの用意が出来てるよ」
ジャン・ボネも言った。みんな、劇団の気のいい仲間達だ。
「ありがと。着替えたらすぐに行くよ」
そんないつもの会話にも、すっかり慣れた。

楽屋には夢の残像。舞台で使った小物やファンが差し入れてくれたお菓子や花束。そして、何よりも僕自身の孤独。姿見の前に立った僕はまだ、舞台の上で色褪せて行ったあの時代から帰って来ない。
その人物のことを僕は知り尽くしていた。他の誰よりも上手に演じることが出来る。何故なら、それは僕自身が生きた人生に他ならないのだから……。

僕は結んだリボンタイを外そうと胸元に両手を持って行った。結び目はするりと解けた。が、その時不意に誰かがその端を交差させて強く引いた。
息が詰まった。影だけが僕の背後で重なるように動いている。
「誰…だ……!」
僕はタイの間に手を入れて耐えようとした。が、相手は僕の問いには答えずに黒いビロードで出来たそれを容赦なく締め上げた。

「や…めろ……!」
足元の床が抜け落ちて寒色に変わる。そして、周囲は暗幕で覆われたように区別がつかなくなる。唯一残っていた姿見の枠が透けて行く。その枠の内側から漆黒の腕が伸びて、僕の身体を乱暴に掴んだ。追っ手だ。捕らえられた。駄目だ。連れて行かれる。暗黒の牢獄へ……。絶望が僕の身体を蹂躙する。

見開いた目に映ったのは、見知った男。そいつが僕を殺したのだ。それは舞台でもよく共演していた役者仲間のアキレスだった。その顔を僕は凝視した。奴は無言で僕の身体を突き落とした。次元の隙間へ……。何百、何千もの扉が光の速さで閉じて行く。沈んで行く瞬間、僕は握り閉めたままでいたリボンを挿し入れた。忘れてはならない空間のイマージュへ……。

そして、僕はもう一度崩れた粒子を再構築するとその場に立った。
「お疲れ様」
通りすがりにラウルが言った。
「千秋楽お疲れ様。ホテルで打ち上げの用意が出来てるよ」
ジャン・ボネも言った。みんな、劇団の気のいい仲間達だ。
「ありがと。着替えたらすぐに行くよ」
そんないつもの会話にも、すっかり慣れた。

楽屋には夢の残像。舞台で使った小物やファンが差し入れてくれたお菓子や花束。そして、何よりも僕自身の孤独。姿見の前に立った僕はまだ、舞台の上で褪せて行ったあの時代から帰って来ない。
その人物のことを僕は知り尽くしていた。他の誰よりも上手に演じることが出来る。何故なら、それは僕自身が生きた人生に他ならないのだから……。
そう。僕自身に他ならない。
姿見の前に立った僕はそっと胸元に手を当てる。

「あれ? どうしたの? アキレス、何か忘れ物でもしたのかい?」
振り向いた僕が問い掛ける。
「ああ。君があんまり遅いんで迎えに来た」
「それはどうもありがとう」
僕は片手でリボンを外すと鞭のようにしならせて宙を打った。
「消えろ」
おまえにブルーノートの鍵を解くことは出来ない。
そうさ。僕の行く手を遮るのは、誰にとっても不可能なんだ。誰かが引いたと思ったラインは、始めから存在しないのと同じ。おまえが今、ここから消失したように……すべての生命は原子に還り、別の生へと循環する。だけど、合成可能な幾多の生を経験したら、人は本当に賢くなれるのだろうか。僕は僕でいられるのだろうか。

僕のためにリボンを結んでくれたソフィー。
君に何て言おう。

――この舞台が終わったら……

そうだ。この舞台が終わったら……。
永遠に届かなくなってしまった約束は、時の彼方に漂って、君を悲しませるだろうか。
それとも、その悲しみは僕だけのものだろうか。きっとそうだね。でも……。
幸福の花びらが散ってしまっても、君の笑顔には指一本触れないでいよう。

――この舞台が終わるまで

客席に人はいなかった。
けど、僕はここでもう少し茶番を演じていたい。君のために……。
心地よかったんだ。舞台の上でなら、これまで生きて来たすべての僕に再会出来る。だから、もう少しだけ、このままでいさせて。

消えてしまった男が立っていた場所に、僕はそっと花束を置いた。もう誰もおまえのことは覚えていない。僕がそうしたからね。僕がブルーノートの力で書き換えたから……。でも、僕だけは覚えているよ。おまえという敵がいたことを……。その痕跡を打ち消した責任に於いて……。

だけど、すべてを修復するのは難しいだろう。次元の抜け道が開いてしまったから……。本当はもう少しここに留まっていたかったのだけれど……。
次の街に翔ぶ前に、みんなに挨拶したいから、パーティーには出席するよ。
そして、次は何処に行こうか。
僕は化粧台の前に立て掛けられた台本の1つを取ってぱらぱらとめくった。そこはまだ見たことのない小さな島国での記録。そこで待つ未知の暮らしを想像してみる。

埋め込まれた記憶は今や複数に分かれ、僕自身を構成していた。もしも一人の僕が消失したとしても、残った僕が補えるから……。
そうして僕とブルーノートは無限へと拡散して行く。舞台で繰り返し様々な人生を演じるように、僕は本物を生きる。
燃え尽きることのない命と共に……。